豚耳さんぽ

やあ (´・ω・`)
ようこそ、豚耳さんぽへ。
このテキーラはサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。

うん、「また」なんだ。済まない。
仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。

でも、このブログを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。
殺伐とした世の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい
そう思って、このブログを作ったんだ。

じゃあ、注文を聞こうか。

殺生石              訪問日2016年6月26日




私事ではございますが先日仕事で、夜中に車の運転をしていましたら、突然イタチが飛び出して参りまして、『あっ!こんな大都会の栃木にも、イタチがいたっち。』と思う間もなく急ブレーキを踏みました。


ところが運悪く、その日は雨が降っておりまして、愛車カウンタックのアンチロック・ブレーキ・システムが作動し、車がなかなか止まりません。



『あはは・・・、はやくぅ~わたしを捕まえてぇ~』



まるで私を挑発するように、愛車カウンタックに背を向けて逃げ始めたのです。


あとから聞いた話なのですが、イタチとウサギは車が走る方向に逃げる習性があるそうですね。



『ほうら、つかまえたぞっ!』



その瞬間、振り返ったイタチの物悲しい潤んだ目を、一生忘れることが出来ません。



幸いにも、イタチは軽く車に当たっただけで、走って逃げてしまいましたが・・・。


皆さんも深夜に車の運転をされる場合は、急な飛び出しには注意してくださいね。






今回の話は、九尾のイタチ伝説ではなく、九尾の狐伝説で有名な『殺生石』です。


前回、『限定』の誘惑に負けてしまった豚耳は、肥やした私腹を減らすため、那須湯元にある『殺生石』へと向かいました。


実は豚耳、殺生石には2度目の訪問です。


最初の訪問は小学5年生の遠足の時なので、かれこれ30年前の話になります。


その頃は今よりも九尾の狐の怨念が強く残っており、もっと殺伐とした臭いと風景だったように思います。












ちなみに殺生石の道を挟んだ向かい側には、有名な那須湯元温泉『鹿の湯』があります。


ひなびた名湯とよばれる鹿の湯へは、豚耳も年に2,3回訪れていますが、いつ来ても湯治や温泉マニアの方たちで賑わっています。


いやぁ本当に良い温泉なので、ぜひ殺生石とセットでお立ち寄りください。






20台程度が止められる駐車場の先には小さな橋が架かっています。


『湯川』『いでゆばし』と温泉地ならではの名前が付いてます。


日光湯元には『湯滝』という冷たい滝もありましたな。






橋を渡って最初の伝説は『盲蛇石』です。







伝説の内容は、まんま鶴の恩返しのパクリです。


ここで問題なのはパクリ伝説ではなく、盲蛇(め〇らへび)と名付けたことです。


おかげでテレビの旅番組で放送されることもなく、九尾の狐伝説と比べて認知度もいまいちです。


もし『蛇の恩返し』または『夕鶴』ならぬ『夕蛇』と名付けていれば、『殺生石』という恐ろしい名前ではなく、『夕蛇石』になっていたかもしれません。


もしかすると鶴の恩返しよりも、こちらの方がメジャーになっていたかもしれません。


『夕鶴って夕蛇のパクリだろ?』


また、まんが日本昔話でも、定期的に放送されていたでしょうね。








つづいては教傳(きょうでん)地獄です。






写真がピンボケなのを幸いに、豚耳が伝説の内容を説明します。


むかしむかし髪の毛を金髪モヒカンにした、教傳という男がおったそうな。


あまりにも素行が悪く困った母親は、福島県のど田舎にある蓮華寺という寺に教傳を丸投げし、性根叩き直すために預けたそうな。


結局素行不良なまま教傳が28才の時、寺の跡を継ぎ母親と一緒に住んだそうです。


実はこの辺りで豚耳は母親の策略があったのではないかと睨んでます。



まんまと寺を手に入れた教傳は、ある日不良仲間と供に、那須湯元へ湯治に行こうと計画します。


そんな息子の計画を知った母親は、珍しく朝食を作りましたが、当の教傳は『朝からババアの作った精進料理なんて食えるかよ!オレ様は肉しか食わねえんだよ!』と言い、あろう事かババアの作った精進料理を蹴飛ばしてしまったのです。



『・・・この恨み、晴らさでおくべきか・・・』とツイートするババアを尻目に、那須に向けて旅に出たのです。



那須に到着した教傳一行は『那須に来たら、お菓子の城とチーズガーデンと殺生石は外せなくね?』と言い、すっかり観光気分に浸りながら殺生石へと向かったのです。


『くせぇ~くせぇ~』


『教傳のヤツ、ウ〇コ漏らしたんじゃね?』


そんなことを言いながら歩いていると、いきなり地面から熱湯が吹き上げ、教傳に襲い掛かったのです。


『この世は地獄じゃあ~』と言い残し、教傳は泥とともに消えたそうです。


それ以来この場所は、親不孝者の末路として、祀られているそうです。


教傳が亡き後、まんまと寺を手に入れたババアは、悠々自適にお寺で一生を暮らしましたとさ、めでたし、めでたし。







教傳地獄の周りには千体地蔵がならんでいます。


豚耳の目測ですが、おそらく1,000体はないと思います。誇大表現はいけませんね。








豚耳が前回訪れたときは、木製の歩道は出来ておらず、険しい岩場を落石



に怯えながら慎重に歩いた記憶があります。


時の流れは、こんなにも変えてしまうのですね。






こちらは休憩所ですね・・・。


え~と・・・、次は・・・。



『おい豚耳!お前急にやる気失くしてないか?』


実は教傳地獄を書いたあと寝て起きたら、テンションが下がってしまって・・・、まだ記事の半分も書いてないのにどーしましょ?






とりあえず、ココの伝説のメインを張る『殺生石』に着きました。


さすがにこれ以上ブログが長くなると、ムラゴンのサーバーがダウンしてしまいますので簡単に説明しますね。







九尾の狐の世を忍ぶ仮の姿である『玉藻前(たまものまえ)絶世の美女だったらしく、

当時は鳥羽上皇に仕える女官であったが、鳥羽上皇が玉藻前に夢中になったのを見た宮中の人々は、上皇が病気になった理由を『玉藻前は九尾の狐の化身じゃ』と言いがかりをつけ殺害しようと企んだのです。



『あれっ⁉鳥羽上皇って平安時代の話じゃん』


そう思ったあなたはスルドイ。



そうです。道路を挟んだお向いさん『鹿の湯』は、7世紀前半頃に出来たそうですから、歴史的には『鹿の湯』の方が古いです。




もしかすると傷を負った九尾の狐も、ケガの治療のために鹿の湯に入ったのかもしれません。


もしかすると狐ではなく人間の姿で入浴したのかもしれませんね。


豚耳がこの場にいなかった事が、とても残念でなりません。






結局退治された九尾の狐は、毒岩に化けて殺生石となりましたが、1385年玄翁和尚によって打ち砕かれ、その欠片は全国に住む3カ所の高田さんちに飛散したと言い伝えられております。


どーりで知り合いの家はクサイわけだ。





このあと引き続き温泉神社を、お送りする予定でしたが、予定よりかなり長くなってしまった為、次回へと続きます。


お憑かれさまでした。